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静岡地方裁判所沼津支部 昭和62年(ワ)278号 判決

主文

一  被告は、原告湯山チヨに対し金四〇八一万九〇五一円、原告湯山直美及び同湯山京子に対しそれぞれ金一六〇〇万一四〇三円、並びにこれらに対する昭和六一年五月八日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、これを三分し、その二を被告の、その余を原告らの負担とする。

理由

第一  原告らの申立

一  被告は、原告湯山チヨに対し金六五五四万四七一二円、原告湯山直美及び同湯山京子に対しそれぞれ金二七七七万二三五六円、並びにこれらに対する昭和六一年五月八日から支払済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  仮執行宣言

第二  事案の概要

本件は、被告の湯山正好(以下「正好」もしくは「亡正好」という。)に対する診療行為に過誤があり、その結果正好が死亡したとして、亡正好の相続人である原告らが、被告に対し、診療契約上の債務不履行もしくは不法行為に基づき、亡正好の損害と原告ら固有の損害の賠償を求めた事案である。

一  争いのない事実及び証拠により明らかに認められる事実(以下、成立に争いがないか、弁論の全趣旨から成立が認められる書証については、その旨記載することを省略する。)

1  当事者

(一) 原告湯山チヨ(以下「原告チヨ」という。)は正好の妻であり、原告湯山直美(以下「原告直美」という。)及び同湯山京子(以下「原告京子」という。)は正好の子であつて、いずれも亡正好の法定相続人である。

(二) 被告は、医師であり、渡辺整形外科内科医院(以下「被告医院」という。)を開設している。被告医院は救急病院に指定されている(争いがない。)。

2  診療経過

(一) 正好は、昭和六一年五月八日午後五時三〇分頃、勤務先から帰宅後喉が痛くなつたので、被告医院を受診し、被告の診察を受けたところ、被告は急性上気道炎と診断した。診療後、正好は帰宅した(争いがない。)。

(二) その後正好は、症状の不良を訴え、同日午後七時台の時間(正確な時間については争いがある。)に妻である原告チヨに付き添われて被告医院を再び受診した。被告は、正好に呼吸障害を認め、御殿場市救急医療センター(以下「救急センター」という。)への転院を決定した。正好が被告医院の診察室を出るときは、正好は、原告チヨに片腕を支えられて歩き、自発呼吸があつた(争いがない。)。

(三) 正好は、原告チヨの運転する自動車で救急センターに向かい、同日午後八時二五分頃、救急センターに到着した(争いがない。)。原告チヨは、救急センター到着と同時に正好の異常に気付き、助けを求めた。正好は、ショック状態にあり、自発呼吸はなく、意識もない状態であつたので、救急センターにおいて、正好に対し、心マッサージや気管内挿管等の救急蘇生術が試みられたが、正好は同日午後九時五〇分死亡した(以上のうち、正好の死亡に関する事実は争いがない。その余の事実については、《証拠略》)。

(四) 正好の死亡原因は、急性喉頭浮腫による急性呼吸不全である(争いがない。)。

二  争点

1  被告の診療行為における注意義務違反の有無

(一) 原告らの主張

被告には次のとおり注意義務違反がある。

すなわち、被告医院から帰宅後再度被告医院を受診する前の正好の症状は、薬を飲もうとしても飲み込めず、呼吸が出来ず痰が出せない状態であり、二度目に被告医院を受診した際の症状は、被告の問診に「息苦しい。」と答えるのがやつとで、座つて診療を受けたが呼吸するのが苦しそうであり、乾性ラッセル音が多少弱く聞こえる状態であつた。

このような呼吸状態の正好の診察にあたり、被告としては、問診を十分行うとともに、意識の状態、血圧、脈拍等の全身状態を観察して患者の重症度判断及び緊急度の判定をなし、また、正好の呼吸困難の原因につき上気道の障害を疑い、咽頭はもちろん喉頭鏡を使用したり、又は聴診器を喉頭部にあてて喘鳴を確かめるなどして喉頭の状態をも観察すべきであつたのに、これらの観察を怠つたため、放置すれば搬送中に喉頭浮腫が大きくなり気道狭窄が進行して、気道閉塞を招来し、窒息により死に至る危険があることを予見することができず、その結果、自ら気管内挿管による気道確保の措置をとつたうえで搬送するか、救急車等に同乗し自ら介助するなどしていつでも気管内挿管あるいは注射針穿刺等による気道確保の措置をとることができるようにして搬送すべきであつたのに、漫然と原告チヨ運転の自動車に正好を乗車させて同人を救急センターに搬送させた。

(二) 被告の主張

被告には、正好の診療にあたり注意義務違反はない。その理由は以下のとおりである。

(1) 正好の症状は次のとおりであつた。すなわち、正好が被告医院から帰宅した後の昭和六一年五月八日午後七時三五分頃、被告医院に「息苦しいので診てもらいたい。」旨の電話があつた。そこで被告は、すぐ来院するよう答えたところ、正好は、原告チヨに付き添われて同日午後七時五五分頃来院し、歩いて診察室に入つた。正好には呼吸障害が認められたが、自分で「一時間三〇分前から咳が出た。痰はない。」と説明した。被告は喘息を疑い、「今までに喘息があつたか。」と尋ねたが、「無い。」という答えであつた。診察台に横臥するよう指示したところ、「寝ると苦しい。座つた方が楽だ。」と訴えたため、被告は、正好を椅子に掛けさせ、アレベール一ミリリットル、アスプール二ミリリットルの噴霧療法(吸入)を施行した。このように、正好は、午後七時五五分に歩いて被告医院診察室に入り、被告の質問に応答していた。

被告は、正好の症状の改善がみられなかつたため、呼吸系統の重篤な症状(肺水腫、喉頭浮腫、咽後膿瘍、喉頭異物の可能性など)を察知し、個人開業医での治療の限界を考え、救急センターへの転送を決意した。そこで、被告は、噴霧療法を施行したまま、救急センターへ電話を架けて応諾をとり、正好には原告チヨの運転する自動車で救急センターへ向かわせ、その後を自動車で追尾した。被告は、右転送にあたり救急車を呼ぶことも考えたが、これを要請して待つより直ちに出た方が救急センターへの到着が早いと判断して右のような措置をとつた。この点は医師の裁量の範囲に属することである。正好は、被告医院の診察室から玄関へ出るまで、原告チヨに片腕を支えられて歩き、正好にはこの間終始自発呼吸があつた。

(2) 原告らは上気道の状態を観察すべきであつたと主張する。しかし、喉頭の状態は口を開けさせただけでは確認できず、間接喉頭鏡や喉頭ファイバースコープにより視診することができるが、内科医である被告に耳鼻咽喉科医が備える右のような間接喉頭鏡等の使用を期待することは医療水準を超えるものというべきである。また、被告医院には麻酔による気管内挿管を行う際に喉頭を展開するために使用する喉頭鏡が存在していたが、これを使用することは患者に激しい苦痛を与えるので、その使用にあたつては局所麻酔等の麻酔を施行する必要があるところ、呼吸困難と喉の痛みを訴えている正好に対し、人的物的設備を有しない被告が喉頭鏡を用いるため、呼吸抑制を伴う麻酔を施行することは危険であるのみか、もともとアレルギー性疾患の既往歴がなく、犬吠様の呼吸がみられなかつた正好のような患者に対しては、咽喉の浮腫を考えて喉頭鏡を用いるということはしないのが内科医の水準である。仮に喉頭を診たとしても、耳鼻咽喉科の専門医でない個人開業医の被告が、その病態を正しく把握できたかは疑問であり、また、十指に余る呼吸困難をきたす疾患のうちから短時間のうちにその疾患を鑑別診断すること(正好の喉頭浮腫の原因疾患は急性喉頭蓋炎であつた。)は困難であつたというべきであり、このような場合には可及的早期に高次の医療機関に患者を転送するのが被告にとつては採るべき道であつた。

(3) また、正好は独歩で来院し、同人に意識障害やチアノーゼはみられなかつたうえ、前記のとおり喉頭鏡等による喉頭の状態の視診は困難であつたから、被告が、その後三〇分以内に正好に生じた喉頭浮腫による気道閉塞を予見することは不可能であつた。

(4) 気管内挿管は、通常患者を意識のない状態にし、更に筋の緊張を取り去つた後に喉頭を展開して行われる。意識のある状態で挿管が行われることは稀にはあるが、それは上気道の閉塞がない状態で、かつ、設備が整つている医療機関で麻酔科の熟練医によつて行われるのが一般的である。しかして、救急センターへ転送するため被告医院を出るまでの正好の症状は前記(1)にみたとおりであるから、挿管の絶対的適応ではなかつた。したがつて、右のような正好の症状に対して設備の不十分な被告が麻酔を施し、場合によつては必要とされる気管切開まで準備して挿管を行うことは、一般的には行われていない。なお、急性喉頭蓋炎の場合、挿管によつて喉頭を損傷し、浮腫を悪化させるという懸念があり、殊に重症例では喉頭の展開が困難となるため、挿管は容易ではない。

(5) 被告が正好を救急センターに搬送するに際し、救急車を利用しなかつたことは、一刻も早く患者を救急センターに到着させるためであり、医師の裁量の範囲に属することは前記のとおりである。仮に被告が搬送に際し救急車を利用しこれに同乗したとしても、正好の呼吸停止を防ぎ得なかつたことは次のとおりである。

救急車により体位を保ちながら搬送した場合には、呼吸停止を防ぐことができたかについては、正好の場合座位が呼吸を楽にする体位であり、これは自動車の助手席に座らせて搬送した場合と変わりがないのであるから、正好が搬送中呼吸停止を起こしたことにかわりがない。

また、喉頭が浮腫で見えにくい患者に対する自動車の中での挿管は現実的には無理であるから、医師が同乗していても気管内挿管を行うことは困難であつたというべきである。

さらに、上気道閉塞を招来しても太い注射針を前頚部から気管に何本か刺すことにより呼吸停止を防ぐ方法については、全く医学的根拠がない処置であることが承認されているのであつて、したがつて、搬送にあたり医師が同乗していたとしても、正好の呼吸停止を防ぐことはできなかつた。

2  損害の発生とその額

第三  争点に対する判断

一  争点1について

1  第二・一の事実に、《証拠略》を総合すれば、正好に対する診療経過につき以下の事実が認められる。

(一) 正好は、昭和六一年五月八日午後五時半頃、三日前から三七度程度の発熱があり、これが改善されなかつたため、内科及び整形外科を診療科目として標榜し、救急病院の指定を受けている被告医院を訪れ、被告の診察を受けた。正好は、被告の問診に答え、「三日前から三七度の熱が出て下がらない。喉が痛く、疲れやすい。」と訴えた。診察の結果、熱は三七度であり、扁桃腺が赤く腫れていたが、ラッセル音等の異常音はなかつた。そこで、被告は、正好の症状を急性気管支炎・腺窩性扁桃膜炎と診断し、扁桃腺にルゴールを塗布するなどし、ニフラン(解熱鎮痛剤)等の内服薬三日分を与えて帰宅させた。

(二) しかし、正好の症状は帰宅後も改善しなかつた。正好は、被告から交付を受けた薬も喉がつかえて飲み込むことができず、その後痰も出せないと訴えるようになり、同日午後七時三〇分頃には、息が苦しく横臥していることができないと訴え始めた。そこで、正好の妻である原告チヨが被告医院に電話で「正好が息ができない状態である。」旨を伝えたところ、電話に出た被告医院の看護婦が、被告の指示を仰いだうえ、すぐ来院するよう返答した。

(三) 正好は、原告チヨが運転する軽自動車(アルト)に乗車し、同日午後七時五五分頃、被告医院を再度訪れ、被告の診察を受けた。診察室には原告チヨが付き添つてきたか、正好は原告チヨの介助なしに自力で歩いて来た。しかし正好は、被告の問診には「息苦しい。」と答えるのがやつとのような状態であり、原告チヨが「咳が出て、痰がからんでいる。」などと説明した。また、被告が喘息やアレルギーの有無を尋ねると、正好は「ない。」と答えた。背中の聴診の結果、弱い乾性ラッセル音が聴取され、気管ないし気管支に痰が溜まつていることが推測された。右診察中正好は、横臥するより座つている方が呼吸が楽である(起座呼吸)として、座つていた。正好は肩で呼吸をしていた。呼吸は荒かつた(なお、正好は、時として首を横に振つて激しく息を吸い込む動作をしていたが、被告はこれを確認していなかつた。)。そこで、被告は、正好に呼吸障害があると判断し、ネプライザーを使用して粘液溶解剤のアスプール二ミリリットルとアレベール一ミリリットルを同人に吸入させるよう看護婦に指示するとともに、病状の進行がかなり急激であり、初期の診断と異なり、肺水腫や咽後膿瘍ないし喉頭浮腫などの重篤な疾患を疑い、被告医院より人的物的設備の整つた救急センターへの転院を考え、同センターへ電話を架けて転院の応諾をとつた。その際被告は、看護婦に右吸入の効果を尋ねたところ、症状の改善は得られないとの返答を得た。

(四) 被告は、正好らに転院することを告げ、その方法として救急車の利用は時間がかかるおそれがあると考え、正好を原告チヨの運転する軽自動車に乗車させて救急センターに向かわせ、自己は自動車で先導もしくは追尾することとした。救急センターは、被告医院から約四キロメートルのところにあり、同センターまでは自動車で、道路事情により早ければ七ないし八分、遅くて一〇分から一五分かかるのが通常であつた。

正好は、救急センターへ向かうため被告医院の診察室から玄関まで歩いたが、その際の歩行は原告チヨに片腕を支えられたうえでのものであつた。その時点では正好には自発呼吸があつた。

(五) ところで、医師が正好のような救急患者に接した場合には、呼吸、脈拍、血圧、体温、意識状態、チアノーゼの有無等のバイタルサインを把握し、患者の重症度判断や緊急度の判定をすることが必須とされている。しかし、被告は、前記のとおりの問診と聴診を行つたほかは正好の全身状態の診断ないし観察を格別行つておらず、喉頭はもとより喉頭の状態の確認すら行わなかつた。そして、正好のように喉の痛みや嚥下困難があるうえに呼吸困難がある場合には、先ず第一に疑うべき疾患は喉頭上気道の疾患である。

もつとも、口の中から喉頭の状態を直接見ることはできず、喉頭疾患の診断をするためには、間接喉頭鏡や喉頭ファイバースコープを使用する必要があるが、耳鼻咽喉科医であればともかく内科医にこれら機器の備え付けと使用を期待するのは無理であつた。また、被告医院には麻酔をかけて挿管する際に使用する喉頭鏡があつたが、これを使用して喉頭の診断をする場合には、静脈注射により患者の意識をなくして筋緊張をとつたうえで施行するか、あるいは意識のある状態で使用するのであれば、咽頭及び喉頭を十分に局所麻酔したうえで施行する必要があるが、呼吸障害のある患者に麻酔を使用することには危険が伴う。しかし、患者の喉頭に聴診器をあてて呼吸音を聞くことにより呼吸困難の原因が喉頭上気道部にあることを知ることは可能である。

(六) 原告チヨは、正好を自己の運転する軽自動車の助手席に同乗させて被告医院を出発した後、約一〇分程で救急センターに到着したが、その途中の正好の様子についてはこれを十分確認するだけの精神的余裕がなく、同センターの玄関前に自動車を止める寸前に初めて、正好の容体の異変に気付き、被告に正好の異常を知らせた。被告が駆けつけた時、正好は口から泡を出していた。正好は、その後直ちに救急センターの集中治療室に運ばれたが、意識及び自発呼吸はなく、瞳孔が散大し、心停止の状態であり、四肢は冷たく湿潤し、チアノーゼが認められる状態であつた。そこで、直ちに心マッサージ、気管内挿管及び血管確保などの救急蘇生術が施されたが、その効なく、同日午後九時五〇分正好の死亡が確認された。死因は、急性喉頭浮腫を原因とする急性呼吸不全であつた。

(七) ところで、一般に窒息の経過は次のとおりである。

(1) 第一期 前時期または無症状の時期で、二〇ないし三〇秒(人によつて一ないし二分)。

(2) 第二期 呼吸困難を覚える時期。吸気性(一ないし一・五分)、ついで呼気性(一〇ないし二〇秒)の呼吸困難が見られる。呼気性に変わるときに意識喪失し、全身性の痙攣、顔面チアノーゼや瞳孔散大等が起こる。

(3) 第三期 仮死期に相当する。呼吸及び循環が一時停止する。痙攣も呼吸運動も反射機能も消失する。この間約一分。

(4) 第四期 終末呼吸期である。深い痙攣性呼吸を行うが約一分で停止する。

(5) 第五期 その後放置すれば、もはや呼吸運動は行わぬが、心臓はなお拍動する。五(三ないし八)分まれに一五分。この時期の途中で回復能力(蘇生能力)を失う。

(八) 正好が救急センターに到着したときは、右窒息の経過の第五期後半に入つており、もはや回復不可能な状態にあつた。しかし、右時期に至る以前に気管内挿管等により気道の確保ができておれば、正好を救命し得た可能性は高かつた。

2  右認定の事実によれば、被告には、正好が二回目に被告医院を受診した際、正好のような呼吸困難を訴える救急患者を診察するに際し当然に要求される、呼吸、脈拍、血圧、意識状態やチアノーゼの有無等のバイタルサインの把握をなさず、したがつてまた、これらのバイタルサインの把握を通じ患者の重症度判断や緊急度の判定をなすべきであつたのにこれを怠つた注意義務違反が存したといわざるを得ない。

そして、正好の呼吸障害は喉頭浮腫に起因するものであり、同人は、被告医院を出て原告チヨの運転する軽自動車で救急センターに向かう途中、急激に呼吸困難を進行させ、同人が救急センターに到着したときは、既に回復不能な窒息状態にあつたところ、右時点以前に気道が確保されていれば、同人を救命し得た高度の可能性があつたことは右認定の事実から明らかである。

3  そこで、正好の右呼吸困難の急激な進行についての予見可能性について判断する。

前記のとおり正好の呼吸障害は喉頭浮腫に起因するものであつたところ、正好が喉の痛みや嚥下困難を訴えていたことに加え同人に呼吸困難の症状が見られたことからすれば、同人の呼吸障害の原因が喉頭上気道にあることが先ず疑われるべきであつたことは前記1(五)に認定したとおりであり、現に被告も喉頭浮腫を正好の呼吸障害の原因疾患の一つとして疑つていた(前記1(三))。また、被告は、喉頭に聴診器をあてて呼吸音を聞くことにより呼吸障害の原因が喉頭上気道部にあることを知ることが可能であつた(前記1(五))(以上によれば、被告は正好の呼吸障害の原因が喉頭浮腫にあることを認識し得たといえる。)。しかして、正好の呼吸困難は起座呼吸を必要とする状態であり(前記1(三))、《証拠略》によれば、起座呼吸を必要とする状態は呼吸障害の程度としては重症であることが認められる。のみならず、被告の問診に対する正好の応答は話すのが苦しそうな状態であり、また、正好の呼吸は荒く、肩で呼吸をしていた状態であり、時として首を横に振つて激しく息を吸い込む動作を見せていたうえ(前記1(三))、被告医院から救急センターに向かう際の正好の歩行は原告チヨに片腕を支えられてのものであつた(前記1(四))。しかも、前記1に認定の事実によれば、正好は、被告医院を一回目に受診して約二時間後には起座呼吸を必要とする呼吸困難の状態に陥つたうえ、被告医院への二回目の来院時は自力歩行をしていたが、その後ほどなくして救急センターへ向かう際は原告チヨの補助により歩行する状態になつていたことが明らかであり、正好の症状は短時間のうち急激に悪化していたというべきである(喉頭浮腫につき急激な進行をみる場合のあることは後記のとおりである。)。以上の正好の症状に加え、呼吸、脈拍、血圧、体温、意識状態等の正好のバイタルサインないし全身状態を注意深く観察していれば、いやしくも救急医療に携わる医師としては、証人上田守三(第一、二回)が供述するように、正好を救急センターに搬送する途中において、同人が窒息状態に陥ることを高度の蓋然性をもつて予測することはできないにしても、首の状態や体位如何により喉頭の完全閉塞を招くか、あるいは低酸素状態が進行して意識を喪失し呼吸停止の状態に陥る等によつて呼吸困難が急激に進行する可能性を否定することはできなかつたというべきである。したがつて、正好を救急センターに搬送するにあたり、場合によつては同人が右搬送中呼吸困難の急激な進行により窒息状態に陥ることのあり得ることを予見できたものといえるから、医師として救急医療に携わつていた被告は、正好のバイタルサインないし全身状態を十分に把握したうえ、これを予見すべきであつたといわざるを得ない。

もつとも、乙九の一(森山寛の意見書)には、正好は被告医院を独歩で来院しており、他方耳鼻咽喉科医でない被告においては喉頭の診察はできない状況下では、その後の極めて短時間内の正好の予後を予測することは困難であり、また、バイタルサインの把握によつても極短時間後の予測は不可能であつたとの記載があり、証人森山寛も同趣旨の供述をしているところ、正好の喉頭の状態を喉頭鏡等により診察することを被告に期待することは困難であつたこと、及び、正好は二回目の診察時においても歩行は可能で自発呼吸があり、問診に対する応答も可能であつたことは前記1に認定のとおりである。しかしながら、被告が正好のバイタルサインの把握を怠つたことから、同人の呼吸、脈拍、血圧、体温、意識状態等の正確な情報は得られていないうえ、正好の症状や喉頭の呼吸音の聴診により同人の呼吸障害が喉頭浮腫に起因する可能性が高いものであることを診断し得たといえることは前記のとおりであり、また、正好の呼吸困難の症状については短時間のうちにかなり悪化したと思われる状況が存したこと(とりわけ正好はわずかの時間内に自力歩行から片腕を支えられての歩行に変わつたこと)も前記したとおりであることに加え、同人の呼吸障害の程度は起座呼吸を必要とする程重症であつたことや同人が示していたその他の呼吸状態等に照らせば、同人の搬送中に生じた事態の予測可能性を否定することはできないものといわざるを得ず、したがつて、前記記載ないし供述はこれを直ちに採用し難い。なお、《証拠略》によれば、正好の喉頭浮腫は急性喉頭蓋炎によるものであり、同人の場合は発症後急激に呼吸困難が進行し呼吸停止に至つたものであることが認められるが、このように急激な進行をみる喉頭浮腫ないし急性喉頭蓋炎については、その数は少ないものの救急医学や耳鼻咽喉科の医学雑誌に紹介されていたことは《証拠略》により認められるところである。

4  そこで進んで、被告に原告ら主張の気道確保の措置をとるべき注意義務が存し、かつ可能であつたかについて判断する。

(一) 先ず、正好を救急センターに搬送する前に被告自ら気管内挿管による気道確保の措置をとるべきであつたかについて検討を加える。

証人上田守三は、被告は、正好を救急センターに搬送する前に、搬送中に起こり得る同人の気道閉塞を予防するため、予め同人に気道内挿管を施すべきであり、それは被告にとつて可能であつたと供述する。しかしながら、《証拠略》によれば、気管内挿管による気道確保の絶対適応は患者が意識のない状態に陥つた場合であること、挿管は患者に意識がある状態下で行われることもあるが、それは上気道の閉塞がなく、かつ、設備の整つている手術場で熟練した麻酔医によつて麻酔を使用したうえで行われるのが一般的であることが認められるところ、救急センターへの搬送前は正好に意識があつたことは前記1に認定の事実から明らかであり、又正好には喉頭浮腫という上気道の障害があつたのであるから、内科ないし整形外科の一開業医である被告に、救急センターへの搬送前に正好に対し気管内挿管の措置を施すことを要求することは困難であつたといわなければならない。証人上田守三の前記供述はこれを直ちに採用できない。

(二) 次いで、正好を搬送するにあたり被告が気管内挿管等の気道確保の措置をいつでも取れる準備をして同人を介助すべきであつたかについて検討する。

正好を救急センターに搬送する途中におて同人が気道閉塞状態に陥る危険性を否定することはできず、かつ、救急医療に携わる医師であれがこれを予見し得たことは前記のとおりである。そして、《証拠略》によれば、正好が搬送途中呼吸困難になり、低酸素症・高炭酸ガス血症になると、意識障害が進行し、自力での気道確保は困難となること(しかして、この時点が気道内挿管による気道確保の絶対適応であることは前記のとおりである。)、したがつて、このような場合に気道を確保するためには医師の介助が必要であること、もつとも、普通の乗用車のように狭い車内では気道確保の処置をとることは困難であるが、救急車であれば可能であり、気管内挿管も救急車を停車させることによつてこれを実施することは可能であることが認められる。そうとすれば、被告は、正好を救急センターに搬送するにあたり、救急車を利用したうえ、正好が呼吸困難に陥ることをも予想して気管内挿管等の気道確保の措置をとることのできる準備をし、自らもしくは看護婦を伴つて正好に付添い介助すべきであつたというべきである。そして、《証拠略》によれば、正好が救急センターに到着後同センターの医師によつて蘇生措置として採られた気管内挿管は、喉頭浮腫の存在のため手間取つたが(ただし、生命に危険が及ぶ程に困難であつたということではなく、喉頭に異常がない患者に挿管する場合と比較すればという意味においてである。)、可能であつたことが認められるから、被告が正好の搬送に付添い同人が呼吸困難に陥つたとき気管内挿管の措置が採られたとすれば、気管確保は相当程度に可能であつたといえ、したがつて、正好が救命し得た可能性もかなりの程度存したといわなければならない。搬送途中における気管内挿管の可能性に関する証人森山寛の供述は、証人上田守三の証言に照らし直ちに採用し難く、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

なお、被告が救急車を利用した場合は、被告医院への救急車の到着まである程度の時間を要することが明らかであり、この間正好の症状が急変し気道閉塞の状態に陥つた可能性はあるが、この場合にはその場で直ちに気管内挿管等の気道確保の措置をとることが可能であつたといえるから、救急車の利用に伴う右不都合は前記結論を左右しないというべきである。

5  以上によれば、被告は、正好の呼吸障害に関する医療行為に関与した医師として、正好の二回目の受診時にバイタルサインの把握を怠つたうえ、同人の呼吸障害の重症度及び緊急度の判断を的確に行わず、その結果、同人を救急センターに搬送するにあたり、呼吸困難の急激な進行により同人が窒息状態に陥ることを予見し、救急車を利用するとともに、臨機応変に気道確保の措置が採れるよう準備し、同人に付添つて介助すべきであつたのに、これを怠り、自己が追尾もしくは先導したものの、正好の救急センターへの搬送を原告チヨが運転する軽自動車に任せた点において、正好の死亡につき過失があるものといわざるを得ない。

二  争点2について

1  正好の逸失利益(請求額六一〇八万九四二五円)

四四〇〇万五六一三円

《証拠略》によれば、正好は昭和一六年六月一六日生まれの健康な男子であり、死亡当時四四歳であつたこと、当時正好は、日興通信株式会社の御殿場工場に工場長として勤務し、年額五八〇万〇六〇〇円の給与所得を得ていたことが認められる。右事実によれば、正好は、本件医療事故がなければ、少なくとも六〇歳までの一六年間右同額の年収を得られたものと推認されるところ、生活費として三〇パーセントを控除し、年毎に年五分の中間利息を控除するライプニッツ方式(ライプニッツ係数一〇・八三七七)により正好死亡時の逸失利益の現価を算定すると、四四〇〇万五六一三円(円未満切捨)となる。

2  正好の慰謝料(請求額三〇〇〇万円)

一四〇〇万円

正好は、健康に恵まれ一家の支柱として働き盛りの時期において、本人医療事故により、妻及び未成年の二子(《証拠略》によれば、正好死亡当時、原告直美は一一歳、原告京子は九歳であつたことが認められる。)を残して突然死亡するに至つたものであること、本件医療事故の経過、被告の過失の内容等諸般の事情を考慮すれば、正好の本件医療事故による精神的苦痛に対する慰謝料としては一四〇〇万円が相当である。

3  相続

原告チヨは正好の妻であり、原告直美と同京子は正好の子であるから、正好の以上の損害(合計五八〇〇万五六一三円)を原告チヨが二分の一(二九〇〇万二八〇六円円未満切捨)、原告直美と同京子が各四分の一(各一四五〇万一四〇三円 円未満切捨)宛相続により取得した。

4  原告らの損害

(一) 葬儀費用(請求額一〇〇万円)

八一万六二四五円

《証拠略》によれば、原告チヨは正好の葬儀費用として八一万六二四五円を支出したことが認められる(《証拠略》の死亡診断書料二万八〇〇〇円は、うち五通分二万五〇〇〇円は生命保険関係に使用されたものであることが認められ、残三通分三〇〇〇円についてはその使用目的が不明であつて、葬儀費用と認めることができない。)。

(二) 原告チヨの慰謝料(請求額一〇〇〇万円)

五〇〇万円

原告チヨは、本件医療事故により、未成年二子を抱えたまま突然夫を失うことになり多大の精神的苦痛を被つたものというべきところ、本件医療事故の内容等諸般の事情を考慮すれば、原告チヨの精神的苦痛に対する慰謝料としては五〇〇万円をもつて相当とする。

(三) 原告直美及び同京子の慰謝料(請求額各五〇〇万円)

各一五〇万円

原告直美及び同京子は、本件医療事故により、いずれも未成年の学童期に突然父を失つたこと、その他本件医療事故の内容等諸般の事情を考慮すれば、同原告らの精神的苦痛に対する慰謝料としては各一五〇万円をもつて相当とする。

5  弁護士費用(請求額九〇〇万円)

六〇〇万円

弁論の全趣旨によれば、原告チヨは、本件訴訟の提起及び追行を弁護士である原告ら訴訟代理人に委任し、相当額の手数料及び報酬を支払うことを約したことが認められるところ、本件訴訟の内容・経過、認容額等諸般の事情を考慮すれば、本件医療事故と相当因果関係のある弁護士費用としては六〇〇万円をもつて相当とする。

第四  結論

以上の次第で、原告らの本訴請求は、不法行為による損害賠償として、被告に対し、原告チヨが四〇八一万九〇五一円、原告直美及び同京子が各一六〇〇万一四〇三円、並びにこれらに対する不法行為の日である昭和六一年五月八日から各支払済まで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるが、その余はいずれも理由がない。

よつて、原告らの本訴請求は右限度で認容してその余をいずれも棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を適用し、仮執行宣言の申立についてはこれを付するのを相当でないものと認めて却下することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 新城雅夫 裁判官 園田秀樹 裁判官 高橋光雄)

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